入院生活・看護婦さん・和敬塾(石坂)

4月4日以来、入院生活を送っています。
昨秋の10月、突然両脚に起きた強烈な痺れのため、歩行障害となりました。
 日頃から時折通っている整形外科クリニックの医師から「神経内科で精密検査を受けるように」と言われて病院へ行き、検査を受けましたが、原因が判然としないまま、杖を使いながらこの3月28日まで何とか通勤していましたが、とうとう脚が思うように動かなくなり、入院して再検査を受けました。

 何度もCTやMRI画像を撮られて、結局、胸椎という頚椎の下にある背骨に狭窄部分があって、そこが神経を圧迫している、との診断でした。
 手術前の説明では、『整形外科的には難易度が高い手術ではないが、神経に関わるので成功率は60%とされている。』と言われました。放置しておいて良くなっていく見込みはなかったので、思いきって手術をお願いしました。

 4月14日は「熊本地震」に襲われた日でしたが、その日に受けた手術は、全身麻痺のあと俯せになり、背中を縦に約10cmほど切開して、胸椎の狭窄部4箇所で神経を圧迫している骨を削り、健全な骨を移植してから金属板で補強した、と聞かされました。

 施術された病院での後半では、術後の諸検査に加えて、少しずつ脚の筋トレや歩行練習がありましたが、5月6日からはリハビリ専門病棟を持つ病院に転院して、リハビリに精進しています。
 2ヶ月にも及ぶ入院生活は初めてです。

 初めの病院では6人部屋、転院後は4人部屋で起居していますが、どちらにも昼夜2交代で患者たちのお世話をされる看護師さん、介護士さんがおられます。私も何から何まで身の回りの一切の面倒をみて頂いておりまして、彼等、彼女らのお仕事には本当に頭が下がる思いで過ごしています。

 毎日、看護師さんや介護士さんに接しているわけですが、病院やクリニックで看護婦さんを見ると思い出す一人の看護婦さんがいます。
 それは、初めての海外勤務で赴任したアフリカ・ザイールで会った日本人の若い看護婦さんです。

 私がその会社に入りたかった一番の動機が、会社が当時、大型海外資源開発プロジェクトとして、ザイールで銅鉱山開発に着手していたからでした。海外での資源調査や開発の仕事をやりたくて、大学では地質学・鉱物学の中で金属鉱床学を学ぼうと思い、よんどころない事情で2年間も浪人した後やっと合格。卒業して念願の資源会社に入り、憧れの海外に赴任出来たのですから、ハッピーな会社人生のスタート、と言えたでしょう。
 が、私が日本を発って2ヶ月後に一人で初めての出産を控えて日本に残った妻はアンハッピーな結婚生活の始まりだっただろうと思います。

 入院生活は当然のことながら、病院が定めたルールに従って過ごすことになります。
 初めの病院では、術後の痛みもかなりあって、何かを読もう、などという余裕がなかったのですが、転院してからは痛みも和らいできて、「世の中はどうなっているかな」という気も湧いてきました。ただ、この病院では新聞を購読出来ないので、家人に時々新聞を持ってきてもらっています。

 その中の5月15日付日経新聞の「リーダーの本棚」で、上述のアフリカに当時おられた看護婦さんの名前を見つけたのです。「リーダー」は日本看護協会会長の坂本すが氏。氏が紹介されている『座右の書』8冊の2番目に次の本を載せていらっしゃったのです:徳永瑞子著「アフリカで老いを生きる」。

 看護婦さんのお名前が徳永さん、というのはザイール時代から知っていましたので、著者の名前とアフリカの二語から、彼女に間違いない、と思いました。
 あとで知ったのですが、彼女は私よりも5つ若く当時23才だったのでした。私は入社4年目でした。

 資源開発という仕事は鉱石を掘る鉱山だけを開発すれば済むものではありません。
 日本でも海外でも、なぜか鉱石の集合体である鉱床(コウショウ)は都市から離れた辺鄙な所に賦存していることが多く、その開発、つまり膨大な量の鉱石を採掘するための従業員は、都会に住むことが難しく、鉱山の近隣に住みます。
 従って、一つの生活圏が辺鄙な中に出来上がります。

 ザイールでも、資源保有者であるザイール政府が開発権を企業に与えるのに、開発する場所に従業員用社宅をはじめ、病院・学校・教会・農場など付帯施設を建設・運営することを条件としていました。
 これらの付帯施設のうち、学校は、現地従業員用のほかに日本人用も必要でした。

 というわけで、鉱山開発というのは、町づくりのような面をも含む実にエキサイティングな仕事だと思います。

 会社は、ザイールに、確か長崎大学で熱帯医学の研究をされていた方(田口というお名前の先生だったと思います)を医師として、また看護婦・助産婦を3人ほど派遣していた、と記憶しています。徳永さんは、その中の一人です。

 私は、銅鉱山を開発していたムソシという地区から約360km西に離れた、埼玉県ほどの面積の地域に作られた探査専用のベースキャンプに1971年10月に赴任し、そこで2年間暮らしました。任務は、3千数百平方キロメートルという広大な地域(B地区、と読んでいました)を、地質調査などで踏査し、探鉱ポテンシャルを評価することでした。

 その頃、開発現場のムソシ地区では「ヨンナナトウ(47 10)」を合言葉に工事が進められていました。これは、昭和47年10月に初出鉱(ハツシュッコウ=採掘した鉱石を初めて出すことで、鉱山の操業開始を意味します)に向けて、日本人は諸工事の下請け・孫請けを含めて約千人、ザイール人約3千人が、昼夜の突貫工事に従事していました。

 私が、Dr.田口や看護婦の徳永さんにお世話になったのはマラリヤに罹った時です。マラリヤ予防にはレゾヒンという錠剤を赴任直後から服用していましたが、なんか目の奥がおかしくなるので、止めていたら罹ってしまいました。
 向こうのマラリヤは日本の風邪と同じような症状で、高熱に悩まされる、というのとは違います。身体が怠い、微熱、食欲不振という症状は先ずマラリヤを疑います。
 普通は耳たぶから血を少し採り、血の中にマラリヤ原虫が見つかればマラリヤです。放置しておくとマラリヤ原虫が脳にまで繁殖し発狂して死亡するので怖い風土病です。

 Dr.田口は看護婦さんを連れてムソシ地区から360キロ、車を飛ばし、確か3時間弱でベースキャンプに来てくれました。
 レゾヒン液を太い注射器二本に入れて、お尻に注射し、『あとはマラリヤが勝つか、石坂さんのパワーが勝つか、フィフティ・フィフティだよ』と言い残してムソシへ戻っていきました。徳永さんは『どんなに下痢をしても御飯を食べること。絶対に死なない、って思うことよ』と言ってくれました。

 私はマラリヤには二回罹りましたが、幸運にも治り、B地区の探鉱ポテンシャル評価を報告書に纏めて帰国しました。

 徳永さんは、著書によれば8年間ザイールに居られたそうですが、あのザイールでのお仕事がアフリカに関わるきっかけだったそうで、1991年にNGOアフリカ友の会 を設立。1993年から中央アフリカ共和国でエイズ支援活動を始められました。2011年から上智大学でも教鞭をとっておられるそうです。

さて、和敬塾は、次世代を担う大学生を対象に、人間形成を目指して60年前に作られた学生寮です。如何なる人間を形成しよう、としたのでしょうか。様々な人間像があるでしょうが、医療の面でアフリカの人々に捧げるお仕事をされている徳永瑞子さんのような生き方も、和と敬の心を体した人間像であるのは、言うまでもない、と私は感じた次第です。

以上

2016.5.21 杉並、浴風会病院にて。
石坂武司

乾寮の「乾文學」に念う(石坂)

和敬塾のHPから「乾文學」のサイトがリンクされています。サイトによりますと、これまでに4号が出ています。総覧的な感想を書きます。

1.まず、「乾文學」という誌名が気に入りました。
「學」が「学」ではなく画数の多い旧字体を用いていることも含めて、素晴らしい誌名をつけたと思います。乾寮生を含む和敬塾生は全員、大学に籍を置いていることから、頭に浮かんだのは、早稲田大学の「早稲田文學」、慶応義塾大学の「三田文學」、学習院大学の「白樺派文學」です。

 末尾で触れますが和敬塾には、過去にも寮が発行していたいわゆる“文集”があって、“卒業文集”とか、別の固有名詞が誌名として付されていますが、「○○文学(學)」というのはありません。
 その意味で、乾寮には少しは考えながら文章を書くことが好きな寮生が、この誌名とされたのはなかろうか・・、と推察しています。

 というのも、教育文化研究所が主務としている塾誌「和敬」の号数は、昨年11月で96号でして、60年という和敬塾の歴史でみますと毎年2冊未満の刊行、ということで、決して多い号数ではないなと感じておりました。創刊以来の旧塾誌の「編集後記」を通覧してみますと、『今回も塾生に依頼した原稿がなかなか集まらず、刊行が遅れました。』とのお詫びがよく出ているのですね。
 つまり、和敬塾生には文章を書くのが苦手、あるいはあまり好きではない大学生が集まっていたのかなァ、という印象を抱いていました。文系に属ずる学生が多いのにも拘わらず、です。

 が、このほど乾寮が寮生の執筆による文章集を「乾文學」と銘打って冊子にされことは、和敬塾にもチャンとした文章を書こうとする塾生がいることを暗示しているな、と思った次第で非常に嬉しかったです。

2.冒頭に書いた、頭に浮かんだ早稲田大学の「早稲田文學」が早稲田大学で、「三田文學」が慶応義塾大学で、「白樺派文學」が学習院大学で出されたということは、「乾文學」と名づけられた乾寮生の方はお気づきと思いますが、これら刊行物の創刊がそれぞれ、1891<明治24>年(早稲田)、1910<明治24>年(三田・白樺)であったことから、近代の日本文学が如何に大学というところを核にして発展してきたかを意味している、と思うのです。
このことは、「文学」というジャンルに限定されたことではなくて、「日本語の確立・発展・普及」とも同義だと思っていまして、日本の最高学府である大学が、人文・社会・自然等々ほぼ全ての領域を、自国の言語(母国語、つまり日本語)で学べるところだ、という、非英語圏、特にアジアでは極めて“特異な状況”をもたらしたことに繋がる、と思うのです。“特異な”というのは、私は、日本と日本人にとって、非常に恵まれた、そして在り難いこと、という意味で使っています。
 なお、このことの裏返しとして、今では世界の“普遍語”となりつつある「英語」に対する日本人の力量が、いつまでたってもはかばかしくない、という事態をもたらしました。

3.「乾文學」の“創刊の辞”には、こう書かれていました:

『「文學」とは一部の知識人によって生産され、一部の人間によって消費されるべきものではない。誰もが「文學する」べきなのだ。語られる価値のない人生などない。どんなに拙い言葉でもいい。僕達が一度しかない人生の中で、情熱を傾けて語ったことは必ず誰かの糧になる。』

 これは素晴らしい文章で、全く、そのとおりだと思います。

「乾文學」は、一部には留学生がご自分の母国語で書かれた文章を日本語に訳して載せたものもありますが、全部日本語で書かれています。私は、「乾文學」に載る文章が、今の若い世代に遍く通用し、しかも洗練された日本語、若さに溢れた日本語で綴られていくことを楽しみにしています。

4.以下は、期待というと乾寮生にプレッシャーをかけてはいけませんので、夢、としておきますが、いつの日か、「乾文學」に執筆された寮生の中から、“モノ書きやさん“が世に出て欲しい、と思います。
 和敬塾の塾友諸兄は各方面でご活躍されていますが、いわゆる作家・文芸評論家と称される方はほとんど見当たりません。毎年、ノーベル賞のころになると村上春樹氏の名前が出てきますが、あの方は和敬塾にお見えになって現役塾生と交流されることはありませんし、和敬塾OBとしての存在感があるようにも思えませんので、昔のOBに頼ることなく、乾寮から若手の“モノ書き”が出現してきたらいいなァ、と切に願っています。
 というのも、卒業後、いわゆる組織の一員として就職される場合、20~30代という若い時分にその仕事を通して、世の中で脚光を浴びるようなコトを為すのは“ない”と言って過言ではありませんが、“モノ書き”の場合はスポーツや学芸と同様、若いうちから世に出る機会を内包していますのでね。

補:和敬塾の寮内文集・冊子について:
 和敬塾で“寮内文集”に相当する印刷物は、これまでにも幾つかありまして、教文研にある一番古いのは、1965(昭40)年代に北寮で出された「四季」です。これは当時の普通の一般的印刷様式(手書きの“ガリ版”)ではなくて、活字体を使った謄写版の両面印刷で、外部の印刷業業者に依頼して作成した模様が伺えます。
 手元に残っているのは、1968(昭48)年8月刊の21号(72ページ)で、40名ほどの寮生が寄稿しており、名簿をチェックすると、その殆どが昭和43年の卒塾生であることから、「卒業文集」だったのかなァ、と推察しています。
 それがハッキリするのは1996(平成8年)に出ている「和敬塾北寮 卒業文集『俺達は忘れない』」です。この体裁は、当時既に普及していたコピーを利用して、ワープロや手書き、中には写真を入れた原稿も散見されます。

 上記の文集「四季」が21号にもなっていることから、これらの“寮内文集”は、北寮の初期の頃から継続して出されていたのでしょうが、平成10年代半ばにはありませんでした。
 その後、2008(平成20)年頃に北寮で「文集」を出したことがあるほか、西寮でも2011年ごろにカラーコピーを多用した寮内文集が出ていました。これらの“文集”の中には、当時の大学生が何を、どう考えていたか、について記されたものも散見されはしますが、総じて、卒塾する4年生が寮の後輩たちに一言書く、というスタイルが多く、例えば「お前たち・・・」的な表現も少なくなく、あり個々人の寮生の間ではそれでもよろしいのでしょうが、第三者が読んでも、さほど印象に残る文章は多くはない、と感じています。

(教育文化研究所・石坂武司)

次号予告

塾誌「和敬」96号は、11月初の刊行予定です。

主な内容は、

・平成27年度 入塾オリエンテーション

・論文「一隅を照らす―人材と人物Ⅱ」 
教養講座中国古典輪読会講師 信夫息游先生

・塾友座談会―東寮卒1期生

・声のひろば―「海外留学体験記(アイルランド)」巽寮 村上昇

入塾オリエンテーションでの話(石坂)

まえがき
 この記事は去る3月28日、今年度の新入塾生に対して行った「入塾オリエンテーション」の場でお話した内容を、若干加筆、表現の修正等を施したものです。

1. はじめに
 新入塾生のみなさん、入塾おめでとうございます。    
 和敬塾には研究所があります。1980年代に設置され、冊子「共同生活と人間形成」を3号刊行後、暫く休眠状態となりましたが5年前に再開されました。何か研究を行っているのではありませんで、和敬塾の機関誌、塾誌「和敬」の編集、発行を担当しています。

2. 和敬塾の歴史
 和敬塾の歴史については、入塾前に手にされた「募集パンフレット」の2ページに概要が書いてありますので、ご覧になっているかと思いますが、先ほどの佐藤専務理事のお話にありましたように今年創立60周年を迎えますので、設立は1955年です。
 設立後の動きについては、このパンフレットに載っていますので、ここでは創立者;前川喜作先生のことを少しお話しします(*1)。

【創立者 前川喜作プロフィール】
前川喜作(まえかわ・きさく)1895/明28.5.15~1986/昭61.7.19(91歳没)
 1913(大02) 奈良県畝傍中学校卒業 (18歳)
 1920(大09) 早稲田大学理工学部機械工学科卒業 (25歳)
 同年     川崎造船所 入社
 1924(大13) 前川商店 創業(29歳)
 1937(昭12) 株式会社 前川製作所 に組織変更
 1937(昭12)  支那事変
 1941(昭16) 日米開戦
 1945(昭20) 敗戦

 前川喜作先生は明治28年(1895年)、奈良県御所市で生まれました。ですから、今年はちょうど生誕120周年に当たります。先生は旧制の畝傍中学を卒業後、早稲田大学で機械工学を学ばれたエンジニアでした。大学を出たあと川崎造船所に勤められましたが、4年後にお辞めになって独立され、29歳の1924(大正13)年に製氷業;前川商店を創業されました。前川塾長がよく塾生に「ワシは街の氷屋のオヤジだ」と言われていた、と古い塾友から伺いましたが、街中の一氷屋さんで終わることなく、ご自分が技術ヤだったからでしょう、「ものを冷やす」ということを基幹技術として事業を発展拡大され、13年後の1937(昭和12)年、42歳のときに 株式会社 前川製作所とされました。エントルプルナー(entrepreneur起業家)だった、と言えます。ちょうどその頃から、日本は「支那事変」をきっかけに戦時体制へ入っていき、8年後に敗戦となりました。

 壮年期の喜作先生については、私はほとんど存知あげないのですが、和敬塾を創立されたのは先生が60歳、つまり還暦のときです。それより10年近く前、日本の敗戦の直後から、喜作先生は事業活動のほかに社会奉仕的な活動をおられます。即ち、敗戦翌年の1946(昭和21)年に東京・小石川のご自宅を開放されて宗教法人「和敬会」を設立され、その翌年には「和敬精舎」を渋谷区にあった旧宅の焼け跡に作られ、そこで日本復興を目指した社会活動をされています。

【和敬会・和敬精舎】
1946/昭21  宗教法人「和敬会」設立 (51歳)
       小石川の自宅を開放。
       → 仏教講話
         坐禅・禅の公案/提唱
         街頭伝道
         生活相談等。

1947/昭22 「和敬精舎」建立(渋谷区宇田川町の旧宅焼跡)
       *「仏教青年会」設置。
       → 奉仕・救済活動

 これらの諸活動で使われた名称などから、喜作先生の思想的背景には仏教の影響があることが分かります。これは、いつのころからかは分からないのですが喜作先生は、江部鴨村という大正~昭和期の仏教学者の薫陶を受けておられたそうです。江部鴨村氏はのちに和敬塾の設立発起人のお一人ですし、塾の初期の理事にもなられた方です。

【設立発起人 江部鴨村プロフィール】
江部鴨村(えべ・おうそん)1884/M17~1969/S44
 大正~昭和の仏教学者・評論家。
日大・大谷大・武蔵野女子学院短大教授
 著書:「華厳経 口語全訳」、「徒然草全講義」
和敬塾 設立発起人。 設立時の理事。

 なお、上述の「和敬会」の“ご本尊”として、喜作先生は「世間虚仮 唯仏是真」なる文言を置かれました。
 この“ご本尊”に関して喜作先生は、次のようにお話されています;

『和敬塾の前身であった「和敬会」当時は、聖徳太子の「世間虚仮唯仏是真(セケン コケ ユイブツ ゼシン)」という、あの聖徳太子の有名な、そして実に格調高いお言葉―<世の中のことは総て之れ空虚なもの、みな「仮」のもの、うそなんだ、ただ仏のみ真実なものだ>ーという意味の唯仏是真、というお言葉を「和敬会」の守り本尊としたので、それに向って拝んだのであります。仏像ではなかったのであります。』(塾創立8周年記念祝辞

 この頃の喜作先生の「思いと行動」に対して、のちに和敬塾の設立発起人のお一人であった高橋泰三元理事は、こう記しております:

『(前川喜作氏は)浄土宗の篤信の家に育った関係上、信仰というものには、早くから接する機会も多かったに違いないが、単に信仰というより、私は信仰と実際生活を結び付けた「信念の人」といった方が当たっていると思う。』(*2)。

「世間虚仮・・・」に関連して上記で引用した喜作先生のお話:『<世の中のことは総て之れ空虚なもの、みな「仮」のもの、うそなんだ、・・』の読み方ですが、みなさんのようにお若い方は少々注意を要する、と言いますか、多少のリテラシーが必要か、と思います。「虚仮」は元来仏教用語でして、「虚」は「虚妄・偽り」を意味し、「仮」は「真」や「実」に対する実体のないことを意味します。喜作先生が言われたことは、「世間虚仮」の文字通りの現代語訳で、このままですと、現に私どもが生きているこの世の中は「偽物」、「仮の姿」とも読めてしまい、何か虚無的な印象を与えかねません。大学に入ったばかりでこれから新しく学生生活を送り、実社会に進むみなさんが、この世は仮の姿だから、どう過ごすのも勝手だ、などとは思わないでください。「世間虚仮」は、太子を取り巻く当時の熾烈な権力闘争の中を生きた人の言葉、と理解しておきましょう。

 喜作先生は、上述の諸活動では日本再起へのご自身の思いが十分反映されない、とお感じになったようで、いよいよ大学生用の寮新設に目を向けられました。当時のお気持ちについて、喜作先生は、こう述べておられます;

『いろいろやってみましたところ、いつも大勢の熱心な学生が集まりまして、大変盛んになりましたが、どうも何か観念の遊戯に堕しているようなきらいが多分にありました。』(塾創立8周年記念祝辞

 このような経過ののち、学生寮の建設に着手されたわけですが、その概略を以下に示します。先ず、用地選定で相当ご苦労された様子が伺えます。首都圏各地で100ケ所を回られた、という記録が残っています。
 1955(昭和30)年3月、和敬塾の設立発起人総会の開催に漕ぎ着けられまして、この年を和敬塾創立年としています。

【和敬塾設立前後の年表】
1954/昭29. 9 和敬塾用 用地選定開始
 ~1955/昭30 夏    →都内・都下・神奈川・埼玉・千葉 100ケ所。

1955/昭30.3.19 財団法人 和敬塾 設立発起人総会 (喜作 60歳)
         →この年が「和敬塾創立年」
   同年 暮  旧細川侯爵邸 購入

1957/昭32.4.05 新入塾生選考開始  40数名が本館で起居

      5.03 新築の「南寮」 開寮
      6.29 「西寮」 開寮
1958/昭33.4.17  「北寮」 開寮 ・・・・31大学 397名
1997/平09.3.10 「東寮」 開寮
2005/平17.3.01 「巽寮」 開寮 
2009/平21.3.30 「乾寮」 開寮

3. 和と敬について
「和と敬」という語が、世の中にどれくらい広まっているか、を見ようとグーグル検索してみました。
  「和敬」 で見ると  492 千件
  「和と敬」で見ると  693 千件 ヒットしました。
 この検索で「和敬塾」は、どういうわけか「和敬」では上位に現れなくて、「和と敬」で引くと上位に現れました。

「和敬」という言葉を耳にしますと、例えばお茶をなさっている方は「和敬清寂」という言葉を思い起こします。この「和敬清寂」はもともと禅の言葉に由来する茶道用語です。

 さて、和敬塾の「和敬」についてです。
 喜作先生が和敬塾の基とされた「和と敬」は、みなさんに手渡された「塾生活の指針」の「和敬塾設立趣旨」、これは和敬塾の落成式で喜作先生が述べられた式辞の要約ですが、この趣旨にありますように、聖徳太子の十七条憲法に拠っています。でも、この十七条憲法をキチンと読まれた方は殆どいない、と思っていますので、少し憲法の原文を見てみましょう。

 まず聖徳太子という方は西暦574年生まれですから、かなり昔の方です。推古天皇の治世に摂政になられました。この時太子は何歳だった、と思いますか? 数えの二十歳だったそうです(*3)。数えの二十歳は実年齢が十九歳ですから、みなさんと同じくらいの歳ですね。数えの二十歳で摂政という役職に就き、日本の、と言っても当時は「日本」という国名も定まっていなかったのですが、日本という国の基本的な枠組み、今風に言えば“方向性”とでも言うのでしょうが、それをお考えになって、その方向性のベースを“仏教”の教えに置かれ、十年間の熟慮のすえ三十歳の時に、十七条憲法を制定された(604年)、とされています。この憲法を誰に向かって発布したのか、については諸説あるようですが、今の世でしたら日本国民が対象なのでしょうが、聖徳太子の時代の人口は500万人未満(*4)と見られており、その大半は文字の読み書きが出来なかったでしょうから、発布された憲法を読める、となりますと、行政の中枢から末端で従事する当時の官僚が対象だったのではないか、という説に説得力がある、と私は思います。

 さて、以下をご覧ください。
 いま十七条憲法と言いました。「憲法」なる言葉は、今は日常でよく耳にしますし、国民全般の生活にも深く関与しています。「憲法」という言葉は太子の時代に既にありましたが、おそらく「憲法(ケンポウ)」とは読まなかったようです。
 以下には、「いつくしき のりと あまりなな をち」という“訓読み”が記されています。(*5)
 以下の原文を見ますと、白文なので句読点がありません。

以和為貴 無忤為宗
 和(ワ・やわらぎ)を以って貴しと為し、 忤(サカラ)うこと無きを宗と為せよ。

人皆有黨 亦少達者
 人は みな黨(トモガラ)あり、また達(サト)れる少なし。

是以或不順君父
 是(ココ)を以って 或いは君父(クンプ)に順(シタガ)わず、

乍違于隣里
 また隣里(リンリ)に違(タガ)う。

然上和下睦
 然(シカレ)ども 上(カミ) 和(ヤワラ)ぎ 
 下(シモ) 睦(ムツ)みて

諧於論事
 事を論(アゲツラ)うに 諧(カナ)う ときは、

則事理自通
 事理(ジリ) 自(オノズ)から通ず。

何事不成
 何事(ナニゴト)か 成らざらん。

 第一条ですが、これは46文字の漢字から成っています。「和」はその冒頭にあって、非常に有名な文言「和を以って貴しとなす」と、終止形で読まれることが多いのですが、原文ではその後にも続くのですから「貴しとなし、」と継続形ですね。で、次いで「忤(サカラ)うこと無きを宗(ムネ)と為し・・」と続きます。
 今、「和(ワ)を以って」と読みましたが、これを「やわらぎを以って」と大和言葉で読む方が、感覚的にぴったりくるように私は感じています。それで、ここの文言は、聖徳太子が創出したものではありませんで、出展があって、それが資料の下半分に示した漢文です。「有子曰く、禮の用は和を貴しと為す」。これは「論語」の「学而」にある言葉です。「論語」は日本にいつ伝わったか。『論語が日本に伝えられたについては、異論はあろうが、応神天皇の16年(285年)で、百済の博士、和邇(ワチ)吉(キ)王仁師が献上したのを最初としている』(*6)とあることから、聖徳太子は当然読まれていたことでしょう。因みに仏教伝来は538年あるいは552年とされていて、太子が生まれる数十年前です。

 次ぎに「敬」です。これは第二条に出てきます。第二条も46文字から成っています。

篤敬三寶
 篤く三寶を敬(ウヤマ)え。

三寶仏法僧也
 三寶は仏法僧なり。

則四生之終帰
 則(スナワ)ち 四生(シショウ)の終わりの よるところ、

萬國之極宗
 萬国(バンコク)の極宗(キョクシュウ)なり。

何世何人非貴是法
 何(イズ)れの世の 何(イズ)れの人、この法を貴(トウト)わざる。

人鮮尤悪
 人の鮮(ハナハダ)悪しきは鮮(スクナ)し。

能教従之
 能(ヨ)く教えれば従う。

其不帰三寶
 其(ソ)れ 三寶に帰(キ)せずんば、

何以直枉
 何を以ってか 枉(マガレ)るを直(タダ)せん。

 和敬塾の「敬」は、この第二条の冒頭に出ています。仏法僧の三寶を敬うような「敬」だ、と喜作先生は言われたのです。この「三寶」、よく音読みの「ブッポウソウ」と読まれますが、鳥ではないのですし、ここも「ほとけ・のし・ほうし」と訓読みの方がピッタリ来る感じがすると私は思います。ここまでが、和敬塾の「和と敬」の“出どこ”と言いますか、出展です。

 問題はここからです。
 和敬塾の創立者:前川喜作先生は、塾生に対して「和と敬について説明できる者になりなさい」とは仰言っていません。これ(塾生活の指針)に載っているように、先生は「和敬精神の常住実践の場」、「和と敬を一切の秩序の中心とし」と言われているのです。昨年、塾が設定した「塾是」がこの「指針」の8ページに載っていますが、「塾是」の第1項に「和と敬の心を体して」とあります。

 このあたりのことについてお話します。
 それは、「『△△とは何か』が分かる、あるいは 知っている」ことと、「△△が分かる」との違い、です。この部分は、かなり大事なところです。
 例を挙げます。この△△の部分に“モーツァルト”を入れます。これは勿論人の名前ですから、「モーツァルト、とは何か」というより「誰か、どんな人か、を知っている」となります。電子辞書やパソコンで調べれば、「モーツァルト、ウォルガング・アマデウス・モーツァルト。1756年、オーストリアのザルツブルグ生まれ、5才でピアノ曲を、8才で交響曲を作曲。バッハ・ヘンデル・ベートヴェンと並ぶ古典派音楽の大作曲家。生涯に600曲に及ぶ楽曲を作曲。1971年、ウイーンで没した。35才。」
 というようなことが書いてあります。これだけでも知っていれば、例えば小さい子から「モーツァルト、って誰? どんな人?」と訊かれても、なんとか答えられるでしょう。でも、これは、「モーツァルトが わかる」つまり「モーツァルトの音楽がわかる」とは全く違うことです。
 つまり、「△△とは何か、を知っている」というのは百科事典的と言いますか、辞書的な知識ですが、「△△がわかる」というのは感性の問題なのですね。いくら知識を持っていても、感性がないと感じ取ることは難しいです。

 別の例を挙げます。
 和敬塾の塾生を理系、文系別に分けると文系が多いです。こういう区分は海外では余り見られないようですが、日本では大学進学に際して、文系か理系か、分けるようになっていますね。今年の新入生の学籍を理系別に区分してみますと、と言っても、中には文系か理系か定かでない学科の呼称に属する方もいらっしゃいますが、大雑把に分けてみますと、理工医歯農薬のどれかに属する理系の方が18名で、留学生除きの全体(66名)の27%で、残り73%が文系で、理系の方はマイナーですが、私も理系卒なので理工的な例を挙げてみます。

「化合物半導体」というものが世の中にあります。文字通りには、化合物で出来た半導体、半導体が単一元素ではなくて化合物で出来ている、ということです。そんな話は真っ平、と思われる文系の方もいるかも知れませんが、ここにいらっしゃるほぼ全ての方が、この「化合物半導体」の製品をお持ちです。それは携帯電話・スマホです。この中には化合物半導体を使ったデバイスがあり、それがないと機能しません。もっとも、昨年のノーベル賞受賞記事をご覧になった方は、新聞の囲み記事かなんかで「化合物半導体」の簡単な説明を読まれたかも知れません。ノーベル賞となった青色発行ダイオードも化合物半導体の一つです。この用語も、電子辞書やパソコンで見れば一応の説明が書いてあり、この「化合物」とは、元素周期律表のⅢ―Ⅴ族・ⅡーⅥ族に属する元素の組み合わせからなる化合物―Ga-As(ガリウム-ヒソ)やIn-P(インジウム-リン)という組み合わせ云々―と書いてありまして、高校で物理・化学を履修した方は、だいたい理解できる、わかるハズです。つまり、「化合物半導体とは何か」は、多少理解し、人に説明できるかもしれません。でも、だからと言って、「私は化合物半導体がわかる」とは言えませんね。化合物の組成を知っているだけでは全く不十分です。化合物を構成するそれぞれの元素の特性や、薄膜とか蒸着という半導体の機能を向上させる製法とその機器装置、機能の評価方法、それらに関する技術やノウハウ等々を熟知していなければ、とても「化合物半導体がわかる」とは言えません。

 和と敬」についても、同じことが言えると私は思います。
「和とは何か・敬とは何か」を知るために、またここを出たらそれを語れる人を養成するために和敬塾はあるのではありません。創立者;前川喜作先生は、前にも申し上げたように「和と敬を一切の秩序の中心とし」と言われましたし、昨年設定された「塾是」の第1項にある「和と敬の心を体して」、とありますように、「和と敬」を感性として「わかる」人。そしてその感性に沿った生き方をしていく人間。そういう人間になることを喜作先生は望んでおられたのではないか、と考えます。
 このあたりのことを模式的に要約したものを以下に示します。

 和敬塾設立趣旨:共同生活を通しての人間形成
       ↑
 和と敬の心・精神の涵養・醸成

→「和・敬」に対する“感性”を磨く
       ↓
「和・敬」 が わかる

 和敬塾での共同生活を「和と敬の心・精神の涵養・醸成」、「和・敬 に対する感性を磨く」と位置づけたわけですが、具体的にどうするのか、については、このあと栃木常務理事から「和敬塾の共同生活について」のお話があります。

 私は、「和・敬 に対する感性を磨く」には、他者との“遣り取り”が不可欠だと思います。ここで注意したいのは「他者」には二種類ある、ということです。一つには、みなさん方のお隣、あるいは前の列・後ろの列の方々、つまり同期の仲間ですね。それと寮に戻れば2~4年生の先輩がいますし、来年はまた新入生が入るでしょうから、あなた方を挟んで前後3学年分の仲間がいることになります。そういう仲間達との“遣り取り”ですね。もう一種類の「他者」は「天才」です。天才は普通の人ではありません。みなさん方は18才で大学に進学されたのですが、これは普通の人のことでして天才でもなんでもありません。みなさん方が4月から通う大学には、中学生になったかならいか位の歳の大学学部生や院生はいません。日本の文科省はそういうことを許しておりませんので日本の大学にはいませんが、欧米の有名大学にはおりますし、そのような特異な才能を持った小中学生を世界中で探しています。この話は今を生きる天才のことですが、過去にも天才がおりました。みなさん方が大学で勉学する学問の殆どが、過去の天才達が為した発明発見、新説や仮説、解釈解説などが基本となって展開・構成されています。ですから大学での勉学は、過去の天才に触れることも意味しますが、“遣り取り”となりますと、一方的に受け止めるだけではありませんから、文字通り、天才との“遣り取り”となるようジックリ取り組むことが必要です。

 これまで「わかる、ということ」を基本に、「感性を磨く」と言いました。そのために他者との“遣り取り”の話をしましたが、感性を醸成するための付録としてもうひとつ付け加えます。この一休禅師による「諸悪莫作 衆善奉行」の墨蹟をご覧ください。
 これは、「和と敬」の由来のところで出てきた聖徳太子とも関連するのですが、太子は622年、48歳で亡くなっています。子供は有名な山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウ)を含めて何人かおりまして、亡くなる時にお子たちを集めて授けた言葉、とされています(*7)。これは「諸悪莫作 衆善奉行(ショアク マクサ シュウゼン ブギョウ)と書かれていまして、「七仏通戒偈(シチブツ ツウカイ
ゲ)という仏教では有名な言葉の冒頭の八文字で、多くのお坊さんが書にされていますが、一休禅師、あのトンチで有名な一休さんのものが最も有名だそうで、お見せする写真はその一休禅師の墨蹟です。一休禅師はこの偈がお好きだったそうで、たくさんの墨蹟を残されましたが、この掛け軸が、なんと和敬塾のお隣の永青文庫さんにあるのですね。永青文庫は、今日午後から見学される本館、旧細川侯爵邸ですね、この「細川家700年コレクション」を維持管理、展示されている公益法人ですが、その永青文庫がこの一休禅師の墨蹟をお持ちです。こういう書をジックリ鑑賞することからも「感性」は涵養される、と私は思います。和敬塾に隣接しているのですから、その気になればすぐ行けます。惰眠を貪ったり、カードゲームなどで時間を潰す暇があるなら、どうか時々出向いて名品を鑑賞して欲しい、と思います。

 少々補足しますが、この掛け軸の書体は楷書ではないので読みにくいのですが、意味は、「もろもろの悪を 作(ナ)すこと莫(ナ)かれ。 衆、つまり我々大衆は 善きことを奉行、つまり 行い奉(タテマツ)りなさい」です。よく見ますと、下段の「衆」は読めるとして、その右脇に小さい字で「善」と書いてあります。これには諸説ありまして、単純に一休さんが書き忘れて後から書き足した、という説や、「悪いことをしない、とか善きことをする」というのは実に難しいことを、一休さんはよ~くご存知だったので、意図的に書き落とし、あとで小さく「善」書き加えたのだ、という説です。それはともかくとして、この字の大胆さ、と言いますか、勢い、筆の流れなどなど、見ていて飽きがこない書だと私は思います。

 さて、以上縷々とお話して参りましたが、60周年を迎える和敬塾の「人間形成」は、如何なる成果を生み出してきたのか、と思われる新入生もいらっしゃるか、と思います。一般論として、教育機関の成果というものは、非常に難しく厄介な問題だ、と私は認識しておりまして、2年半ほど前に教育文化研究所のブログにも拙文をアップしました

 ここで、みなさまに次ぎの資料を見て戴きたい、と思います。

○ 行学一体・報恩感謝
○ 「人間の尊厳のために」-高い人格・広い教養・強い責任感
○ 進取の気性と自由の精神
○ 広い視野からものを考え、自主的精神に満ち、自律的に生活でき、・・
○ 強毅篤学
○ 至誠一貫・堅忍力行
○ 世の光・地の塩であれ
○ 「剛・明・直」、「気高く・優しく・健やかに」
○ 進取・敬愛・雄健
○ 人生開拓・知徳体の調和のとれた全人教育
○ 自由と責任・ポスムス(=We can do it.)
○ 神愛・人間愛
○ 気品高く教養豊かな有為な人材養成
○ 責任ある自由
○ Men and Women for Others with Others
○ 未来を洞察、開拓しうる高い知性と教養を養う
○ 真善美
○ △よ、キリストに忠実であれ

 短い単語もあれば、やや長い文章もあります。これは一体なんだと思われますか? 答えは、みなさん方、つまり今年の新入生の出身高校の、校訓、校是・創立者の言葉、設立理念、教育理念、教育方針に相当する語をランダムに挙げたものです。もちろん60余校全部を挙げきれませんで、抜粋です。

 私はこれを読んで、これらの教育理念は「人間形成を目指しているな」と思いました。そこで、です。みなさん方は、ここに示したような教育理念・教育方針に基づく学校に数年間通い、卒業されたわけですが、自分としては、これらの理念・信条をどの程度達成して卒業した、と思っているか、を考えてみてください。それと、これは自分で自分を評価することですから、もしかすると甘く見がちかもしれませんので、みなさんの周りの人、学校周辺の人とか、通学時に出会う駅員さんとか、あるいは親戚の方とか、そういう周囲の人たちは、みなさんのことを、これらの理念・信条から見て、どの程度に到達した、と看做しているだろうか、を推量してみてください。それが、みなさんが卒業された学校の「世間の評価」とも言える、と思うのですが、通常はそのような評価は聞こえてきませんね。もう一度資料―9を眺めると、あることに気付きます。それは、「偏差値コレコレの大学への合格者数を増やす」と言ったような教育理念・教育方針を掲げた学校は一つもない、ということです。どの学校も人間形成を掲げてきたのです。これらの学校には和敬塾よりもっと歴史のある古い学校もあり、ずっとこの理念を堅持してきました。卒業生も大勢いることでしょう。こういう素晴らしい理念・信条に基づいた教育を授けてきた学校の卒業生が、それに沿った生き方をしてきたなら、日本という国はもっと違った国になっていかもしれない、と思います。が、なかなかそうはいかないのですね。

 なぜなのか、を考えてみました。それを少しお話して終わりにします。
 和敬塾には教養講座があります。私はその中の一つ「中国古典輪読会」のお世話役を担当しています。以前「大學」を学びました。あの四書五経の一つである「大學」です。これは講談社学術文庫の「大學」のカバーです。厚さはせいぜい6mm程度ですが中身は非常に豊富です。「大學」は孔子の遺言とも言われています。孔子の没年はBC479年とされていますから、今から2500年ほど前の書物です。

 この「大學」の冒頭、「大學章句序」には次のように書かれています;

○大學なる書は、古の大学にて  人を教ふる 所以の法なり。

 2500年前の書物に「古(イニシエ)の大学にて」とあるのです。2500年よりもっと古い時から「大学」があって、人を教えていたことを示唆している、と読めますが、私が強烈な印象を受けたのは、次に続く文章です。

○蓋(ケダ)し 天の生(セイ)民(ミン)を降(クダ)すよりは 即ち 既に之(コレ)に与ふるに
     仁義(ジンギ)禮(レイ)智(チ)の性(セイ)を以ってせざる莫(ナ)し。

 この文章の通釈は、「そもそも これを推し測ってみるに、天が人民を生む以上は、きっとこの人民に仁・義・禮・智という性、特質を与えていないわけがない。必ず与えたはずである。」これは性善説と読めますね。問題は次ぎの文です。

○然(シカ)れども 其の気質の稟(ヒン) 或いは齋(ヒト)しき能(アタ)はず。

「稟(ヒン)」というのは所与というほどの意味ですから、ここは「然れども、そうは言っても、その仁義禮智という気質の 与えられ具合は等しくない。人によって凸凹がある。人によって異なる。誰でも聖人君子の如く清い気質を受けて生まれてきたのではない、と言っているのです(*8)。鋭い人間観だと思います。彼の国の古人は2500年も前に既にこのような人間観を持っていたことが解ります。
みなさん方はこれから和敬塾で共同生活をされるのですが、私はこの「大學」にある文を読んで、ここで共同生活を送ったからと言って、みんながみんな自然に人間形成されることはない、と思うようになりました。

 では、どうするか。これをお見せします。これも本のカバーです。この本の初版は1937年刊ですから、今から80年近く前に吉野源三郎という方が書かれた古い本ですが、そういうことはどうでもよくて、この本のタイトルです。「君たちはどう生きるか」。これです。
「君たちはどう生きるか」。この問いかけを以って私の話の結びとします。どうも失礼しました。では、栃木常務にあとをお願い致します。(了)

★参考文献リスト
*1:塾誌「和敬」36号-故前川喜作塾長追悼号-昭和61(1986 )年12月15日刊。年譜による。P.155.
*2:高橋泰三「和敬塾十年の歩み」(財)和敬塾 (1968) P.11.
*3:竹村牧男「日本仏教 思想のあゆみ」講談社学術文庫 2285. (2015)。P.23.
*4: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html
*5: Wikipedia 「十七条憲法」
*6:吉田賢抗「論語」新釈漢文大系1。明治書院 (1960). P.7.
*7:竹村牧男「前掲書」P.26.
*8:宇野哲人 全訳注「大学」講談社学術文庫 594 (1983). P.12.

(教育文化研究所・石坂武司)

「戦後の混乱その4」―55年前の6月の出来ごと―(石坂)

 和敬塾のOB組織である塾友会の機関紙「COLLEY(コリー)No:113=平成26年8月1日刊=」の12ページに、石田寛人氏(昭和39年北寮卒)が、昭和35年の安保闘争について触れられています。これを小生は懐かしい想いで読みました。
 和敬塾にお世話になって以来、ここの塾生は、その時どんな行動をしたのだろうか、と思った出来ごとに、石田氏在塾時代以降の激しい学生運動と、オウム真理教事件があります。後者に関しては、塾生の関与や害を被った話を聞いたことがありませんが、学生運動では、やはり実際にデモに行った塾生がいたことを氏の文章から知りました。

 ところで、塾誌「和敬」90号で、前川理事長は、

『今の若者は、私が若いときの若者より優れていると思います。私は昭和30年(1955)に大学を出たのですが、その頃の学生は非常に幼稚でした。君達の方がずっと大人になっている。昔、安保闘争なんていうのがありました。あれは私どもの時代ではずいぶん派手だったけれども、あのような状態が今ではヨーロッパでは続いていて、現に暴動や騒動が起こっていますね。ああいったことは、日本ではとっくに卒業しています。』(*1)

 と、お話されました。

 ここに出ている「安保闘争」は、通称「60年安保(闘争)・70年安保(闘争)」と言われているものの、どちらを指すのか分かりません。両方かもしれません。安保闘争というのは、1960(昭和35)年6月19日の午前0時、33万人が徹夜で包囲した国会で自然成立した「日米安保条約」の改定を阻止しようとした運動です。

「日米安保条約」は、もともと昭和26年(1951)に締結されていて、期限が10年でしたから1958(昭和33)年頃から改訂交渉が行われました。翌34年3月に社会党・総評・原水協などが「日米安保改定阻止国民会議」を結成して大衆を動員する政治運動化を志向したようですが、同年4月10日に皇太子殿下(今生天皇)と美智子さまのご結婚式や、7月には児島明子がミスユニバースに決まる、などお目出度い話題もあって、いわゆる「岩戸景気」と呼ばれた世情でした。 
 そういう中で、政府は1960年5月19日、「自民党、衆院安保特別委員会」で強行的に質疑を打ち切り、衆議院議長清瀬一郎は警官500人を導入して社会党議員(*)を排除し、20日未明に本会議を開催。討論なしの自民党単独採決で可決しました。従ってその1ケ月後に自然成立したのです。今からもう54年余も前の出来ごとです。

* 社会党(社民党の前身)は昭和33(1958)年の総選挙で166名の議席を得た。これが社会党としては戦後で最多議席数であった。自民党は287。
 
 前川理事長は、その当時大学を出られて5年目ですから社会人だったでしょう。私は17才で、理事長の言われた「非常に幼稚な学生」、と言ってもまだ大学生になっていない高校生でした。高校入学時の部活紹介で檀上に立った姿や話しぶりを「カッコいい」と感じたのが”社会研究会”の部長でした。私は放送部に入りましたが、社会研究会の活動は気になっていて、遂に、翌年の高2の6月夕方、会の仲間数人と初めて国会デモへ行ってみました。都内で2本目の地下鉄;丸ノ内線は既に開通していたので新宿から乗り、国会議事堂前で降りたのだと思います。2回目に行ったのがあの樺美智子さんが亡くなった6月15日でした。

 駅を降りると既に人・人・人の群れでした。私たち高校生は学生服に素手で、引率の3年生達に従い、ヘルメットを被って旗を持った大学生達の集団の行進に紛れ込みました。両側に機動隊が列を成している広い通りの真ん中を、腕を組んで行進しました。時折、列のリーダー格がシュプレヒコールという掛け声を出すと大声でそれを繰り返すのです。それがアチコチのグループ毎にやっていましたから、騒然という雰囲気どおりでした。社会人達の集団(きっと労組でしょう)が掲げる大きな旗がいくつも遠くに見えました。デモは行進したり止まってシュプレヒコールを繰り返したり、ある時は道路をジグザグに進んだり、と様々でした。時々立ち止まっては、リーダーが「インタ~!」と叫ぶと、「インターナショナルの歌(革命歌)」を大声で唄いました。歌詞と旋律は今でも覚えています……『♪ 起て、飢えたる者よ、今ぞ日は近し。覚めよ、わが同胞(ハラカラ)、暁は来ぬ。……あ~、インターナショナル、我らがもの~♪』。
 次第に国会議事堂へ近づいたころ、私達の列にヘルメットを被り、メガホンを持った大学生と思われる人が来て、怒鳴るようにこう言いました;「君達は高校生だろ。ここから先は、俺達の後にいて絶対に前へは出るな。いいな! それから”逃げろ!”というのが聞こえたら直ぐにここから逃げて帰れ。警官に捕まったら面倒だからな。」そこで、隊列の真ん中から少し端の方へ仲間と移動しました。何度かシュプレヒコールを繰り返しながらジグザグ進んでいくと、前方の大学生たちの列から、「ワ~~ッ」という喚声のあと、「逃げろ~っ」との怒声が出ました。それを聞いて私は急いで組んでいた腕を解き、人込みを掻き分け掻き分け、横の歩道側の方へなんとか出て、あとは駅の方へ懸命に走って逃げました。地下鉄にどう乗ったのか記憶がなく、気付いたら新宿からの小田急線に乗っていました。と、隣のドアに新宿高校の友人が立っていました。「あ、君も行ったのか。」「あヽ……行ってきた。3回目だ。なんとか抜け出てこられた。」疲労と安堵感で、二人の会話はそれだけでした。
 今でも6月になると、国会前での、あの尋常でない騒々しさ、興奮と緊張感、それに帰りの電車で遭遇した友人を思い出します。その友人とは、新宿高校時代から全共闘活動家でもあった現厚生労働大臣の塩崎恭久氏ではありません。氏は1950年生まれなので’60年安保の時は小学生でした。因みに、音楽家の坂本龍一氏も新宿高校で塩崎氏と同学年で全共闘の活動家でした。

 話を戻して、冒頭に引用した石田氏は、コリー新聞に、前川喜作塾父から
『君らが国の将来を真剣に考え信念を持ってデモに参加するのなら、仕方がない。行って来い。……もし、警察に捕まるようなことがあれば、オレはすぐに貰い下げに行ってやる。しかし、皆が行くからふらっと行ってみよう、というような気持ちでデモに行くと後悔する。』
 と言われた、と書かれています。石田氏は当時、大学2年生。小生は高校生で、「国の将来を真剣に考え信念を持って」いたわけではありませんが、その頃の日本史授業では時間の都合でカバー出来なかった戦後史については関心がありました。

 昭和32(1957)年2月に病いのため総辞職した石橋湛山のあとに、外相から首相になった岸信介(1896~1987)や、賀屋興宣(1889~1977=昭和38(1963)年から池田内閣の法務大臣)が「A級戦犯(容疑者)」であったことを知った時は、『戦争犯罪人だった人が何故日本をリードする政治家に返り咲いているのだろうか』と、非常に疑問を抱いたことを覚えています。特に賀屋は、私が中学生のころにあった選挙=昭和33(1958)年衆議院選挙=で宣伝カーのスピーカーから「カヤオキノリ、カヤオキノリ」という連呼を通学時に耳にしていたので余計印象が強かったのだと思います。賀屋興宣は昭和16(1941)年10月から19(1944)年2月まで、東条内閣の大蔵大臣を務め、GHQからA級戦犯として起訴され、極東国際軍事裁判(いわゆる”東京裁判”)で終身禁固刑の判決を受けた人です。賀屋は約10年間”巣鴨プリズン”に服役したものの、昭和33(1958)4月7日、東京裁判判事団は日本政府に「禁固刑収容者はこの日以降の残刑期を免除する」という通達によって釈放され、上記のように同年の選挙に立候補して当選。以後約14年間代議士を続けました。岸信介は「A級戦犯容疑者」でしたが、不起訴となって公職追放で済み、東京裁判の結果7名が絞首刑となった日の翌日(昭和23年12月24日)、釈放されています。
 こういう人が戦後の政権に復帰できたのは何故だろうか、という疑問は、当時は解りませんでした。が、この疑問を放置せずに精査し一定の見解を纏めたのが、昭和史を実証的に研究し、著している保坂正康氏です。平成16年(2004)、それを「昭和史七つの謎」として上梓されましたー第6話「『A級戦犯は、戦後なぜ復権したか』―。
 同章の最後に氏は次のように書かれました(*2):

『スガモ・プリズンに収容されたA級戦犯容疑者の戦後社会での生き方をみていくと、戦後社会そのものの”ある表情”が浮かんでくる。この”ある表情”こそ、戦後史の謎を形づくっている。すでに記述したように、スガモ・プリズンでのA級戦犯の禁固刑は、実際は骨抜きになってしまったこと、検事団が最終段階まで疑いを持った19人の容疑者は7人の処刑の翌日に釈放されていること、そして、東京裁判そのものが7人を絞首刑にすることですべてが終わっていること、などがたちどころに思い浮かぶ。こうした史実の間から浮かんでくる謎、その実相は戦後社会でも日本の指導者たりうる要人に、
<アメリカには二度と逆らうな。われわれは決しておまえたちを見逃しはしないぞ。決して許したわけではないぞ。>
 というメッセージをつきつけることだったのではないか。おまえたちを裁判にかけないかわりに、このメッセージを忘れるな、ということではなかったか。』

 上記の保坂氏の見解は、今も継続している対米依存(従属)という政治姿勢から、「そうだったのだろうなぁ」とも思います。が、釈放になって国政に立候補しても、選挙で高得票を得なければ議員にはなれません。有権者は、彼らが戦時中どういうことをやったのか、そして戦犯となったことは当然知っていたでしょうが、投票したのです。私は保坂氏が解いてみせた謎の答えはそれとして、当時の有権者が彼らに投票し、当選させたことの方が大きな謎だと感じています。

★参考文献
*1:塾誌「和敬」90号 p.9. 和敬塾(非売品)2012.
*2:保坂正康「昭和史の謎―Part2」p.195. 講談社文庫 2005.

(教育文化研究所・石坂武司)

次号予告

塾誌「和敬」95号は来年3月末刊行予定です。
主な内容は、

*平成15~16年西寮卒塾友(6名)による座談会(抜粋)
 =平成26年7月26日実施

*平成04~07年北寮卒塾友(6名)による座談会(抜粋)
 =平成26年10月11日実施

和敬塾の体育祭(石坂)

 今年も和敬塾恒例の体育祭が行われています。

 和敬塾の体育行事の発端を塾の機関誌「和敬」から捜してみますと、2号(1958年12月刊)に、同年(昭和33年)5月の塾祭の日の午後、『体育大会を行ったが晴天に恵まれ、各寮から選抜された選手によって各種競技の覇が争われ盛大裡に会を閉じた。』という記事が載っています(p.55)。今から56年前のことです。

 この年の4月に西寮が、次いで北寮が開設され、最初の南寮と併せて三ツの寮が揃ったので、「覇を争う」ことが出来たのでしょう。

 このように、和敬塾での体育行事の名称は「体育祭」ではなく「体育大会」で、当初から寮対抗でした。上に引用した「和敬」2号p.55には、『また理事長から優勝杯が授与されることになったので、大いに各寮とも熱を入れて練習している。』との記述があって、優勝杯を巡って三寮が凌ぎを削っていた雰囲気が伝わってくるようです。

 この行事の名称の推移を「50周年記念誌(和敬塾五十年の歩みとこれから)」の年表で見ますと、次のようになっています。

1959 (S34).6.14 春季体育大会
1960 (S35).6.12 同上
1961 (S36).11.10  体育祭。スタンフォード大生も参加(*)
1962 (S37).11.10 秋季体育祭
1963 (S38).11.9 同上
1964 (S39).11.28 体育祭
1965 (S40).11.6 秋季体育祭
(以下、引用省略)

* 当時の和敬塾の留学生数などについては、「和敬91号」に概要が載っています(p.25)。

 この年表の記述から、行事の名称が1961(S36)年から「(○季)体育祭」に変わっていることが分かりました。

 さて、とここで私は考えます。
 何故、名称を変えたのか。変えるに当たってどんな論議がなされたのか・・・。
 このあたりの経緯は機関誌「和敬」に見当たりません。

 私は「体育大会」よりも「体育祭」とした「祭」の方が好ましい、と考えます。和敬塾の冠となっている「和と敬」は、東洋哲学的な、というよりも日本的な印象を強く与えますので、和敬塾の行事としては「祭」を付した方が、より相応しいと思うからです。
 ただ、そこで考えておきたいことは、「祭」と付した以上、寮対抗で覇権を争う運動競技だけで良いのだろうか、ということです。

「(体育)祭」として 「祭」を付していることに、和敬塾らしい意味合いを持たせるとするなら、日本文化における「祭」は、「感謝と祈願」が根底にある、ということを、東京で暮らす若者にも 再認識させる「場」になる、と思うのです。
 これは、教養講座「中国古典輪読会」で講師の信夫息游先生が、時々言われることですが、「祭り」の字源は「奉(タテマツ)る」にあり、元来は人が神に”供える”ことで、この「供える」ときに、神に対する”畏怖の念”と”へりくだり”の気持ちを込めて「供え奉る」となった、ということです。「奉る」が「祭る」に変わったのはどういうことなのか。
 ここで「祭」という字源を白川静の大著「字通」で読みますと、

「祭」という字は「肉」+「又」+「示」から成り、「示=祭卓の象」、その上に牲(イケニエ)肉を供えて祭る。「祭」は「察」に通じ、神意を推し量る。また「際」に通じ、交わること。

 とあります(p.591):

 このような言葉の意味合いを踏まえて、和敬塾での「体育祭」という「お祭り」では、何を感謝し、何を祈願すれば相応しいのか、考えてみました。

 先ず「感謝」は・・・・・
① 五体満足な身体に産んで戴き、ここまで身体的障害を被ることなく護って戴き、健常者として肉体を駆使する運動を出来る身体に育てて戴いた親に対して。
②「ここ」で体育祭が出来る、つまり、この地に和敬塾を創られた創立者に対して、そして、ここ目白台(旧名は高田老松町)の人々に対して。
③ この1年 無事に過ごして 今年の体育祭を迎えられたことに対して。これは 少なくとも、健康を維持できる食事を賄ってくれた方へ、であり、寮生の衛生・安全に心を砕いてくれている方であり、へ、自分を支えてくれた仲間へ、でしょう。

 次に「祈願」は・・・・・
① 甚大な異変が、この場所や一人一人の身のうえに起こらず、来年も同じように みんなが ここで体育祭を迎えられるように。
② 心身共に健康で過ごそう、という自分自身の「精進」の念を維持、且つ実践できますように。

 などが思い浮かびます。

「祈願」なんて冗談じゃない、という塾生がいるかもしれませんが、こういうことを毎年行うことが「和敬」の「敬」の意味の理解を深めることに通じる、と私は確信しています。

 上に書いた「感謝と祈願」の念を、塾の行事の中でどう具体化するかについては、議論の余地がある、とは思いますが、そもそもそういう「思い」を塾生達が感じ取っていたか、感じ取らせる「躾」をしていたか、が問われます。

 ところで、和敬塾の体育祭と言うと、この10数年、塾近隣の方々からの「騒音クレーム」問題があります。
 教育機関が引き起こす「騒音騒動」について、法政大学教授の山口二郎氏が書かれたコラムが目に留まりましたので引用させて戴きます:

『 ”子供への寛容” -東京新聞 -H26.8.31-27面 「本音のコラム」

 先日、保育園が迷惑施設として受け止められているとか、公園で遊ぶ子供たちに静かに遊ぶよう指導が行われているという記事を読み、暗澹たる気分になった。少し前、銀座の泰明小学校の横を通ったとき、都心なのに子供の黄色い声が聞こえて私は妙に嬉しかったことがある。こんな受け止め方は少数派なのだろうか。
 保育園を迷惑がる大人は、静かな子供なんて不自然だと思わないのだろうか。自分も子供のころは遊び場や学校で騒いだことを思い出せば、今の子供たちにもっと優しくなれるはずだが、大人がこれほど自己中心的になれば、少子化や人口減少は止まるはずがない。
 大人が子供に不寛容になっていることは、最初から使える完成した人材を求める社会の風潮の一部である。私は若者を教える仕事をしてきたが、大学に対してはすぐに使い物になる人材を送り出せという圧力が強まってきた。成長途上の若者を使いながら育てる余裕を会社は失っている。
 機械は最初から完成品でなければ困るが、人間は失敗したり、他人に迷惑をかけたりしながら一人前になるものである。今の大人もそのようにして育ててもらったはずである。それを忘れて、次の世代に最初から有能で行儀よくあれ、と要求するのは、天に向かって唾棄するようなものである。 』

 この記事は最近の情報や状況をもとに山口氏は書かれたと思いますが、学校行事に伴う近隣住民からのクレームは、私の子供たちが小学校(公立)へ通っていた30年ほど前から、既にあったようです。特に、学校周辺の戸建て住宅に転居されてきた”新たな住民”の方々から、「せっかく閑静な場所へ移ってきたのに、放課後の校庭は騒々しいし、運動会では拡声器などでとても耐えられない。なんとかしてくれ。」と言ったような文句が出ていた、と言います。

 山口氏が書かれた記事や上記の例で文句となる対象と、和敬塾とで異なる点は、保育園や公園で遊ぶ”児童”」ではなく首都圏の有数の大学へ通う”大学生”であること。それと、”騒音”を引き起こす時間帯でしょう。
 和敬塾の場合は、日中よりも夜間の騒音が問題になりがちです。私は「子供たちが引き起こす騒音」に関しては山口氏と同じ考え方でして、北寮勤務時代、廊下での綱引きの練習や本祭後の和楽荘での寮別打ち上げ、続く廊下での”各階呑み”は夜間になるので、時計を気にしながらヒヤヒヤしましたし、時には住民からのクレーム電話を受けて注意にみえた警察官や、直接寮に来られた住民の方との対応に追われました。
 当時は、東西南北の四寮制で、本祭の当日は相撲・腕相撲・障害物競争・碁石リレー・綱引き・騎馬戦と、朝から多種目競技が連続してあり、寮生達も身体を酷使したでしょう。が、打ち上げは深夜零時を回っても、彼らの歓喜と無念さが交り合う、笑いと涙を存分に共有する饗宴は尽きることがなく、若いパワーの持続力に驚嘆しながら、クレームで来られた方々には、只管(ヒタスラ)謝るだけでした。(この数年、本祭での種目は騎馬戦のみとなり、終了時間を早める工夫がなされ、打ち上げコンパも23時までに終わらせるようになってきました)。

「昔はどうだったのだろうか」と古い機関誌「和敬」を繰ってみましたが、「騒音」に関する記事は見つかりませんで、次のような記述がありました(「和敬」4号=1960(S35)年1月1日刊。P.47);

『体育大会は予定どおり、晴天に恵まれて行われた。前回優勝の西寮がテニスと柔道を棄権した為全く振るわず三位になった。これに反して南寮は凄いファイトを燃やし、五種目に於いて優勝。残りは二位というすばらしい成績を収めて一位となり、また北寮も南寮に劣らない活躍ぶりで、ついに二位を占めた。賞品は一位がビール、二位が昼食券とプラッシー、三位が石鹸と牛乳で、近所の各店から、キャラメル、ハイボール券、風呂券、夏ミカン等をいただいた。』

 これを読むと「騒音クレーム」はなかったように思えます。塾周辺のお店にとって塾生は「お客さん」でもありますから、「賞品提供」があったのでしょうが、お店の方以外の住民のみなさまが、どう感じていたかは分かりません。
 そこで、私は考えます。
 和敬塾の敷地内で、塾生達が青春を謳歌することは、それはそれで大事なことではありますが、前述の「祭」に伴う「感謝」の念と行為が忘れられていたのではないでしょうか。
 塾初期の塾生達に、「和敬塾はこの地(地域共同体)の一員」であって、この地に居て、「自分達の楽しみだけを追求する」だけでなく、「この地で生かされている」という意識があったのだろうか、と思うのです。
 近所のお店から商品の提供があった、とのことですが、そのお返しはどうしたのでしょうか。

 今年も近隣から騒音クレームが何度も届いている、と聞いています。私は、もし、塾周辺の「近隣清掃」(補1参照)を60年間、”黙々と”継続し、「掃除することを塾の伝統」としてきてきたなら、年に一度の多少騒々しい行事に対して、近隣住民の心情的理解が得られたであろうに、と思います。そしてこのことは今からでも遅くはない、と思うのです。二十歳前後の若者が集まっている和敬塾が、この地で「貢献できることは何か」を自ら考え、実行することが「和と敬の精神」の涵養に結び付くと思います。

以上

補1:「近隣清掃」
 和敬塾正門前の目白通りの清掃。9月18日に行われた今年の全塾研修で、いくつかの寮から提案があったが、平成12年以降では、平成14・15年頃の全塾宿泊研修の場だったか、西寮(の委員会)が提案し実行した。北寮でもそれを継承する形で行ったことがあったが、いずれも提案者が卒塾すると実施されなくなり、継続性に乏しかった。
 塾創立当時の正門前目白通りの並木がどんな姿だったのかは調べていないが、今は、児童の通学路でもあり、特に晩秋の落葉時期の銀杏の葉は車道・歩道を問わず膨大な量となって雨天時には滑りやすくなる。

補2:冒頭に引用した機関誌「和敬」2号の記事の最後に、『特に、庭球部には数名の大学選手を抱いている。北寮の生川芳久君は代表選手として遠く香港、パキスタンに遠征した。大いに活躍を期待している。』
 とあります。ここに登場した生川芳久(ナルカワ ヨシヒサ氏=S35北寮卒)は昨2013年のBRIDGESTONE OPEN 第93回毎日テニス選手権(75歳以上)で優勝されています

(教育文化研究所・石坂武司)